昭和46年12月26日 朝の御理解
御理解第54節 徳のない間は心配する、神徳を受ければ、心配はない
どんなに物があっても、金があっても、いうなら、金だけのことではないですけども、どんなに恵まれておってもというんですけど、どんなに恵まれておっても、不安な生活をしておる人が沢山ございます。
神徳を受ければ心配はないと、なんというても、この心配のない生活、不安のない生活、ね、いうならば、そこのところを私は、目指すことが、信心だと思うですね。
そうこのところに焦点を置いて、信心の稽古をする、それが信心。
たとえば、人徳をもっておる人は、人と人との付き合いのうえで、必ず、忠実に、真面目で、正直で、という、または、親切で、というようにです、人間のそういう、全てのものを持ってそれを、日常生活の上に行使していく人達、ね、そういう人達の上に必ず、人徳は付いてまいりましょう。
ね、やはり、真面目で忠実で、正直で、親切でと、どれが欠けても、私は人徳にはならないとね、。
もうあちらは間違いない、ね、あの人はということになる、いわゆる、人の信用なのです。
人の信用を受けるためには、やはり正直で、親切で、真面目で、いわゆる全てに事に忠実に、そういう人に上にです、ね、人の信用はいやが上にも、募ってまいりましょう。
ね、あの人は人間な良いけれども、どうも無精もんだとか、ね、というだったらそれだけでも信用が、いわば、落ちますね。
その、人徳を受けるということでもです、やはりそうでありましょう。
人との関係の上で、ね、そういう一生懸命の取り組みをするから、人徳が付いてくるのです。また、こういう不義理のことをしよっちゃ、信用を落とすと思うて、いつも心がけておりますからね。
なら、一生懸命にまぁいうならば学問をしていく、ね、一生懸命に学問に取り組む、初めて学徳が付く。
ね、小学校か高校ぐらい行って学徳が付くとは思われない。
なら、大学に行ったから、学徳を受けるというわけでもない。
それをいよいよ、学問を愛好する、学問が好きになる、いわゆる、学問が好きで好きでたまらん、寝ても覚めても、学問のこと、そういう人によって、初めて学徳が付くのです。
せっかくお互い信心をさせて頂くんですからね、学問でもなからなければ、人を相手じゃないですね。
私共がもうせっかく信心をさせて頂くのですから、もう神様のほんとに取り組まなければいけないです。何故って願うところがです、心配のない、不安のない生活をさせて頂きたいという、私は信心の願いはそこだと思う。
ね、ですから、私は信心、神様へ、打ち向かう心もです、それこそ学徳をうける人が、学問に対して、その、一途な心を燃やすように、それこそ寝ても覚めても、学問のことばかりであろうようにです、私共が言うなら、寝ても覚めても、金光様、寝ても覚めても神様のことばっかりを、思うておるというような、一途な信心をさせて頂きたい。
だけではない、神様の教えて下さることなら、それはたとえ人から笑われるようなことがあっても、ね、神様の仰せには背かれぬという生き方、そういう一途なものを、神様へ向けて、同時に信心する者は、と例えば仰る。
信心する者は、こういうことではいけんぞ、あああってはいけんぞ、こうなからなければいけないと仰る、そういうことにいよいよ忠実にならなければ、いけない。また、忠実になる稽古を、さしてもらわなければならない。
ね、いよいよ信心をさせて頂く者は、ね、信心とはわが心を磨くものである。信心とは日々の改まりが、第一ぞ、と。
自分の姿を例えば、ね、自分の姿を教えの鏡に照らしてみるとです、なるほど自分が難儀をしなければならないはずなのだ、ね、自分のその難儀の元というのがです、分かるわけです。信心させてもらうと。
ですから、そこへ本気で取り組まなければいけない。日々の改まりが第一じゃ、と、ね、信心とは、本心に玉を磨くものぞと、と教えて頂くのですから、本気で磨く姿勢を取らしてもらう、その磨くことにも改まることにもです、精進せずして、いかに信心が詳しゅうなっても、神徳は付きません。
商売をするなら、売り場、買い場というてと、ね、人が十銭で売るのならば、八銭で売れと、例えを教えて下さるのですから、ね、それを本気実行する、いわゆる神様のおうせには背かれん、という生き方を取らせて頂く、そこに利益があるとかないとかということじゃない。神様がそう言うて下さるから、そうさせて頂くという、生き方なんです。
そこに初めて神徳が受けられる。神徳を受ければ心配はない、ね、お金の心配はいらんようになるだろう、健康の上にだって、様々な問題、人は難儀というけれども、ね、それを、難儀ではないと分からせて頂く、・・・・・?有り難い勿体無いという。
私今日はね、人徳を受ける人は絶対、先も申しましたね、真面目です、忠実です、親切です、正直です、たとえどの一つが欠けてもです、もう、人徳は受けられません。
あ、あちらは間違いがない、そこから人の信用が集まります。人の信用、即、私は人徳だと思う。
ね、私共は別に、他のことじゃない、いわゆる信心をしておるということはね、言うなら、神徳を受けるために、信心しておるというても良い。
いやまたそうでなからなければならない。それで神様の心が分かれば分かるほど、神様のお心にそい奉ろうとする、いわば一途なものを燃やしていくことが信心であり、それが信心の稽古である。
ね、ですから、神様の心といわれる御教えを、ね、それこそ神の言うことは千金の金にも変えがたいと分からせていただかなければならん。
ね、神の一言をその様な、丁重な、しかも慎重な、しかも忠実な受け方をさして頂くところにです、おかげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある、と仰る。
船にも車にも積めんほどのおかげがあるとは、仰らない。船にも車にも積めんほどの、神徳がある。私、今日はここんところをほんと、しきりに思うです。
せっかく信心させて頂くのですから、もうその神様にほんとに取り組まなければ駄目だと、あれ取り組んどったり、これ取り組んどったり、商売繁盛の事ばっかり取り組んでいるから、そらやっぱり、人が十円で儲かるとこは、十一円も十二円も儲かることがおかげのように思うのです。
それはおかげじゃないです。目先は損のようでもやはり、十円の物なら八円で売り、九円で売るというぐらいなです、ね、そうしろと教えて下さるのですから、ね、そこに私は一途なものを燃やす、神徳を受ける、心配はないと、神徳を受ければ心配はないという生活にはいるとことがです、私は、ほんとの信心生活に入ることだと、いや、信心生活に入らなければいただけない、信者だなければ頂けない、特権だと思います。
それにいつまでもおかげ、おかげと言うておったんでは、おかげおかげと思うてもね、そのおかげが神徳と言うおかげでなければならんのです。
船にも車にも、おかげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。それには神の一言を千金の金にも変えがたいと、言う、いわば頂き方。
今日、久留米の石井さんの所のおばあちゃんの、五十日祭、いわゆる合祀祭、あら御霊様から、御霊様の本当の列に加わることの出来なさる式でありました。
もう大変丁重な、も、本当に、今までかって、あちらに行ってから感じたことのないほどに、丁重なお祭りでした。
行き届いたお祭りでした。かおるさんが言うてました。嫁です。ほんとにおばあちゃんがなくなられた時には、もうとにかく、とっさのことで、面食らってしまって、もう、不行き届きのことでございましたから、十日、十日のお祭りを、さして頂く、それにも心を本気で配らせて頂いた。ね、いよいよ、五十日祭には親先生においで頂いての、お祭りだから、もうどこにお粗末後無礼があっちゃならんと思うて、もうほんとに、一生懸命に心配らせて頂きましたけれど、不行き届きの事でございまして、とこう、もう一生懸命にならして頂いたときほど、ほんとに不行き届きの事でございまして、ということになってくることが素晴らしいですね、信心とは。
もうよかよか、そこんにきは、そげんこつでよかが、というとる時には決して、そういう心が生まれてまいりません。
もほんとに有り難い、あの、最後に喜代司さんがお礼に、あの、二階に上がって見えてから、もう、親先生、このように、大変な行き届いた、お祭りをして頂いて、有り難うございます、もうほんとに、感激一杯でそのことのお礼を言うております。
ね、ほんとに行き届いたお祭りを頂いて、なら、自分たちが一生懸命頂いておる。
しかも、さあ、実際にお祭りを受ける段になると、あれもたらじゃった、ここも、というようにですね、もうほんとに行き届いた、もうほんとにおばあちゃんが、もう、これだけあんたどんがやれるようになったら、もうおばあちゃんも安心と、私が思うい、また言わして頂くほどしに行き届いたお祭りでした。
しかも丁重でした。昨日、私を迎えに喜代司さんがやって来ましたが、車の中で、ある人間関係で非常に難儀を、私のほうがいたしますとこう言われる。
けれども夫婦で話しますことは、この難儀からね、あの、それを外れようと思うたらすぐ外れる、例えば、使用人なら、使用人のことでもです、ね、もうその、その使用人のためにかえって、主人が難儀しておる。ですから、それを首にすれば、もう、すぐに、そのことは解消することなんだけれど、家内に申します、これをいかに私たちが逃れようとしてもね、例えば、その問題は逃れても、それだけの難儀というものはまた、そのまま、すぐからでも、難儀をしなければならんから、もういうならば、気心の分かった難儀、この辺が素晴らしいですね。あの人の言い方。お金が足りんなら、お金が足りんという事、ね、人間関係なら、人間関係ということの難儀がです、いうならもう、そのことの、何故難儀をするか、何故そこに、へんな問題が起きてくるかということの、同じ問題に悩んで苦しんでるんですから、もう気心が分かっているちゅうことです。
もっとこれから先、これを外すことは外したけども、次にどういう難儀が起きてくるかわからん、というようなものよりも、もう気心がわかった、先生、難儀のほうがいいですから、とこう言う。
だから、それから逃れようとは思いません、とこう言うのです。
もう信心の根本姿勢です。いや信心のお徳を受けていくための根本姿勢です。
普通のもんならどうかというと、そこから逃れたい、逃れたい、あの人さえいなかったら、あの人さえ変わってくれたら、とこう、思うでしょう。
相手が変わるとか、その人がおらなかったらじゃないです。そういう取り組み方をしているです、ね。
昨日、昨日朝のご理解のことを、あちら行って、お話しさせて頂いたんですけどもね、
ね、此方の行は火や水の行ではない、家業の行ぞ、そういう意味でなら、喜代司さんが合楽では第一人者じゃろうと、私は申しました。
家業の行ということに、もうほんとに忠実に真面目にですね、もうほんとに良く働くんです。それで言うならば、日参り、夜参りしておる人達が、おかしいぐらいです。なぜかというと、日参り、夜参りしよっても家業の行を、ほんとに行としていないのがおかしいのでしょうね。
そこでなら、家業の行とは、一生懸命働くということではなくて、その家業の行の中から、改まることも磨くことも、または有り難いというものも、身に付けていっておるということが、私は喜代司さんの信心の素晴らしさだと思いますね。
それが段々この頃は、ね、いわば教会参りということもです、もう必ず月次祭には、ああして夫婦で最近お参りさせて頂いております、ね。
言うならば、今まで我流の信心であったのが少し、それに教えを受ける、というか、お参りをするということに、御用させて頂くということに、心が向っていきよるから、あれがほんとに、日参り、夜参りできれるようになったら、いよいよ、神徳を受けるだろうと思いますね。
第一、家業の行が素晴らしかです。家業を一生懸命するということが家業の行ではなくって、家業の行の中から、ありがたいものを頂いて行かなければ、家業の行にはならんというのが、昨日のご理解でしたね。いわゆるサンキュウ、というまあね、
ね、それをですね、言うならば、もうどういう問題があっても、例えて言うなら、腹は立てんというのですからね、この人は。・・・・・?人間関係に難儀がある、難儀は難儀だけども、それを決して、それによって自分の心を乱すようなことはせんとこう、決めとる。
もうこれが家業の行です。
だから、一日なら一日を締めくくった時にです、神様有り難うございますが言えれるんです。よー、あそこんところを辛抱させて頂いた、腹かかんで良かった、言わんでよかったと思いよる。
信心を一生懸命しとっても、そこんところに忠実じゃない、いわゆる神様に向ってです、ひとっつも忠実じゃない、真面目でない、そこんところに一途なものを燃やさない、なるほどそれでは、神徳は付きませんよね。
一生懸命にお参りをするとね、例えば家業の行、例えば一日をしめくらせて頂いて、もう今日もほんとに、忙しかった、忙しかった、大変な忙しい一日であったと、そのことが有難いと頂かせて頂けれるために、日頃教えを頂かなければ、有難いということになってこないのです。
いつまでこげな忙しい仕事をせなならんじゃろうか、ということになってくる。ね、そのためになるほど、日参りをしなければならないのだということになるのです。
けども焦点の違った日参りなら、お参りは熱心だけども、家業の上にそれを現していかない。
例えば喜代司さんあたりのようにね、家業の行に確かに、信心させて頂くものの、一つの手本のような、家業のあり方にならせて頂いておる。それは例えば、んなら、お参りということにも、ね、意欲を燃やすようになったら、いよいよ鬼に金棒。
皆さんのように、日参り、夜参りなさる方達がです、ほんとに家業の行が出来られるようになった時に、初めて鬼に金棒です。それなら絶対御神徳を受けていくでしょう。
その両方のことにですね、いわゆる、一心を燃やしていくというような生き方。それを私は、学徳を受ける人は、学問に、もう大学を卒業したけんよか、というふうなこつじゃなかって、もうその、学問が好きで好きでたまらん、もう寝ても覚めても、学問のこと、という人でなければ、学徳は受けられないように、信心をさせて頂いておっても、ね、寝ても覚めても金光様、と一途に、金光様のお取次ぎを頂いて、神様の心を思い、それを業の上に現して行くことを、唯一の楽しみであり、喜びとして、いくならば必ず神徳を受けて行く。そこには心配のない世界がある。
ね、どんなに、物に金に恵まれておっても、ね、やはり、不安、焦燥、心配、ですごしておる人が沢山おります。もうあれだけの、物をもっちゃる、金があるから、心配はなかろうと、そうではない、あるからこそ心配しますという人がある。
ふんならなか方がよか、と思うくらいあります。ね、信心とは金に取り組むことでもなければ、ね、神様以外に取り組むことではありません。
信心とはもう、確かに、神様に取り組むことが信心、ね、しかもそれを、一途なものにしていくところのおかげ、いわゆる信心が好きになる、寝ても覚めても金光様、ね、信心が好きになる、そこまで、お互いの信心を高めてまいりましてです、ね、どういうなかにあっても不安ではない、心配ではない、ね、日々を安心のおかげ、ね、そういう心の上に、恵まれるものの上のことについてもです、限りない御恩恵に浴して行くことももちろん、でけるのでございます。
神徳というのは、ね、神様のご信用と仰せられるのですから、ね、神様のご信用を受けるための、一つが欠けても、もう神様のご信用にならないでしょう。
人徳を受けるための、条件がいくらもあるように、ね、神様から、信用されるための条件をです、しかもそれが、楽しゆうして、嬉しゅうして、という生き方にならせて頂いて、初めて神徳を受けて行くことが出来る、神の一言は、千金の金にも変え難い、という丁重な頂だき方、そこから、心配はない、不安のない、世界に住むことが出来る。
そういう世界に住んで初めて、信心を頂いておる値打ちはあると思います。
ね、信心、せっかくさせて頂くんですから、ね、その神様のその様な取り組み方をさせて頂いて、御神徳を受けたいもんですね。どうぞ。 大坪かよこ